人間関係に疲れ切っている人へ〜悩みと真正面から向き合うのがすべてではない【沼田和也】
『牧師、閉鎖病棟に入る。』著者・小さな教会の牧師の知恵
ただ、探求しすぎて肩が凝り、自身を見つめ続けることに疲れた自己を、自己の外に広がる世界へと拡散させる。それもまた、とても大切なことだと思う。
自分を見つめる、ひたすら内側に向かうベクトルを、他人との雑談という、外側へ向かうベクトルに方向転換する。安全な他人(たち)へと拡散している自己は、リラックスした自己だとわたしは思う。
聖書に、イエスのこんな言葉がある。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」マタイによる福音書 11:28-30 新共同訳
軛と言うのは、家畜を二頭並べて繋ぐためのものである。二頭立ての家畜で農具を牽引して、畑を耕したり荷台を引いたりする。ところで牛であれ驢馬であれ、家畜を二頭立てにするのに、頭を突き合わせて繋ぐ者はいない。二頭立てにする際には二頭横並びに繋ぐのである。これを人間で言うならば、お互いが真っ向から視線をぶつけあう状態ではなく、二人並んで同じ風景を見つめる、といった感じになるだろう。
コミュニケーションをするにあたってアイコンタクトが大切であるということは、子どもの頃から多くの人が教わることである。わたしが子どもだった頃、学校の先生は子どもと話す際に、俯く子どもに対しては「ちゃんと先生の目を見なさい!」と促したりしたものだ。ビジネスパーソンにもなれば、商談をするのに相手の目をみなければ、商談以前のマナー問題となる。つまり、目を見て話せることが社会性の目安となる。しかし相手の目を見るということは、自分の意志を相手に伝えると同時に、相手の目からのメッセージを受けとることでもある。相手の「目ぢから」が強い場合、それはとてもストレスフルで疲労を伴うことでもあるだろう。
悩みを抱えて教会にやってくる人には、人間関係に疲れ切っている人も多い。そういう人の顔あるいは目を、初対面のわたしがまじまじと覗き込むように見つめると、それだけで圧迫感を与えてしまうことがある。その人がせっかく何かを話そうと決意して教会にやってきても、わたしの「目ぢから」に圧されて、何も話せなくなることもありうるのだ。